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その頃、古本屋で入手した雑誌「遊」第7号に小杉さんのインストラクションの作品集が掲載されていました。この雑誌で小杉さんの作品をまとめて知る事ができました。そこには「キャッチウェーブ」のマニフェストも載っていて、「音楽はだから、たかだか毎秒20〜20000サイクルの範囲で振動する波動しかキャッチすることの出来ない聴覚回路との馴れ合い状態のみに成立するものではない。」という魅力的な文章もありました。「キャッチウェーブ」は小杉さんの重要なコンセプトで、音、光、電波を波長は異なるが同じ「ウェーブ」として捉えます。すると、音楽の対象が音だけではなく、光、電波も含まれる。この視点で考えると音楽の形が広がります。また、電波が音に、光が音に変化することで、見えないものが聴こえてくる。「謎ときとしての音楽。光速をもつ音と沈黙。音速をもつ光と影。」この電波、光、音のエレクトロニクスによる変換経路がインターメディアになります。この作品は高周波受信機と紐で吊るした高周波発信器をその近くに垂らします。すると、この聴こえない発信器と受信機の電波の干渉による可聴波の発生で音が聴こえます。紐で吊るされた発信器は近くに置かれた扇風機のそよ風に揺られて受信機の音が変化します。さらに、光導電素子を使い、ライティングの変化で音を変化させます。扇風機に演奏をさせるという小杉さんらしい美しい作品です
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小杉武久 様


text by Kazuo Imai 追悼 小杉武久 RIP Takehisa Kosugi

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間によると小杉はある時、これから訪れる世界について、予言的な言葉を残したのだという。それは「20世紀の末期は北半球の音楽と南半球の音楽の対立によって面白くなるだろう。それはそしてインド音楽とアルゼンチン・タンゴとの闘いになるだろう」(同書、1982、16頁)というとても奇妙なものなのだが、間はこれを次のように解釈したうえで、小杉を後者の急先鋒として位置付ける。
小杉の呼ぶ「インド音楽とアルゼンチン・タンゴとの闘い」とは、ジャズに即していえば(もともと間はジャズ批評家である)スゥイング・ミュージックとしてのジャズと、アンチ・スゥイング・ミュージックとしてのフリー・ジャズの対立であり、さらにいえば「それは汎リズム的ヴァイブレーションと(、)逆立したシニカルでどぎついビートとがどこでどう切り結んでどれだけの性格破産を、修羅場を生み出してゆくか」(同、読点引用者)の対立ということになる。
ここで間が呼ぶスゥイング・ミュージックとは、端的に言えばファシズムに呑まれていくなしくずし(=際限のない分割払い、終わりなき日常?)の全体のことであり、アンチ・スウィング・ミュージックとは、反ファシズムとしての個の解放(生の一括決済、破産?)のことを指している。こんなふうに図式化してしまえばそれまでのことだが、肝心なのは、この反ファシズムとしての解放のためのアンチ・スゥイングを、演奏家である以前に個でしかない人間が、どのように具体的に実践していくかということなのだ。ここで間の考えるファシズム=スゥイング(集団的揺動)というのはかなり広い概念で、政治的な次元を超え、端的に音楽や美術、アートというふうに「束ねられる(ファシズムの語源としてのファッショ)」事態そのものを指している。ではそれがなぜインド音楽とアルゼンチン・タンゴとの対立になるのか。間は両者について、「インド音楽がスラヴ系の音楽とペルシャ系の音楽の死の影の上にこそ極度にソフィスティケイトされていること、アルゼンチン・タンゴが殺されたインディオとヨーロッパの近世音楽と黒人の4ビートを犠牲とした上で成り立っていること」(同、17頁)と対照させている。つまり、音楽ということを抜きにしていえば、北半球的な帝国主義による殺戮の隠蔽が産み落とした歴史的ソフィスティケイションと、南半球的な殺戮の顕在化による脱・歴史的で「滅茶苦茶な混成」(同)との対比ということになる。間が「ジャズ」といい、小杉が「音楽」と呼ぶのは前者の側にあり、むろん「アート」もそこから免れることはできない。だとしたら、いかにして歴史のファシズムと、その制度化のなかで見えにくくなっている表現の現場から、「滅茶苦茶な混成」を引き出し、それを踏み台にして個を解放するか、が問われていることになる。間にとって小杉とは、そのようなことを択しうる本当に稀な存在であったのだ
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https://artscape.jp/focus/10154654_1635.html
text by 椹木野衣 小杉武久とマランダという名の亀、その終わりのない旅と夢